住職コラム 事事無礙 -jijimuge-
第50回
この度の東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
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大宰府に左遷された政治家の没後、平安京で落雷がありました。これは祟りに違いないということで、天神さまをお祭りすることになりました。学者出身の政治家・菅原道真公は、こうして天神さまとなられたのです。こうした御霊(ごりょう)信仰は平安期にはよく見られ、政争に敗れた者と自然災害は頻繁に結びつけられていきました。落雷、地震、旱魃、疫病など、自然災害の前では人は無力に等しかったからでしょう。死者の魂もまた人知を超えた存在であり、そこに関係性が求められ、災害を収める方法として確立されていったのです。今、自然災害の起こるシステムは解明されました。だからこそ、ある程度冷静を保つことができるのですが、災害自体をなくすことはできません。人は自然のなかで生かされている存在なのです。昔から変わらぬこと、心しておきたいものです。
2011年3月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦
第49回
「共生」ということが提唱されて久しいですが、最近また叫ばれるようになりました。環境汚染も関係しているのでしょう。人類の勝手は最早まかり通らなくなってきています。しかし、「共生」は難しいことです。異質と感じる対象とは適度な距離を保っていなければ、違和感を覚えるものです。動植物はもちろん、人類同士であってもそうです。ペットをしつけることはペットを人類化しているだけですし、立場が逆ならゾッとするでしょう。人類同士においては、異民族間での問題は枚挙にいとまがありません。どちらかが勝手を通そうとするから争いになります。さらに言うならば、私たちは常に他と自分を区別しています。日頃の人間関係で悩まれている方も多いと思いますが、それは当たり前のことです。つまり、それほど「共生」は難しい問題なのです。
2011年2月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦
第48回
お寺は今、変化を求められています。檀家による経済的な支えを得て、多くの場合、お寺は比較的安定した運営をして参りました。しかし、それは仏教を実践し伝えるという、お寺本来のあるべき姿を薄らいだものとする一因ともなりました。形骸化された儀式だけを商業的にこなす様子が記事となり、僧侶の社会的信頼を失墜させています。何のために仏教が今に伝わり、僧侶が大勢いるのか。僧侶の生活のために仏教があるのでは決してありません。仏教とは自己を知ることであり、自らの愚かさに気づかされる教えです。それによって自から優しい心を持つことができ、人々に貢献のできる人が育つのです。僧侶は進んで教えを実践すると同時に、その手伝いをしなければなりません。お寺はその拠点となるものであり、閉じたお寺から開かれたお寺へ、今変わらねばならないのです。
2011年1月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦
第47回
南足柄市の寺院有志で、「南足柄 六福寺 お寺めぐり」という巡拝コースをつくりました。市内には「福」の字がつくお寺が多く、江戸時代には「三福寺参り」という巡拝もありました。この度、かつての「三福寺」にもう三福を加え、「六福寺」といたしました。各寺にはそれぞれのスタンプがあり、スタンプシートは市役所や大雄山駅等に置かれる予定です。結構距離のあるコースですので、体調を整えられてからチャレンジして下さい!
http://6fukuji.seesaa.net/
2010年12月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦
第46回
人は本来的に自己中心的に思考しています。当たり前だと思われるかもしれませんが、体の感覚器官はすべて自分中心に機能しています。外部から私を感知するという機能はありません。そして、そこからの情報で思考するわけですから、自己中心的になるのも当然です。人は体によっているので、体の機能以上の情報を感知することはできないのです。ただし、思考においては、イメージを膨らませることは可能です、そのためには良質な本や映画に触れたり、先哲の話に耳を傾ける必要があります。そこからイメージ増幅のための種をもらい、自分のなかで育てれば良いでしょう。もし私が何かされたら、何を感じ、どうなるのか。ここまでは感覚的に簡単ですが、それを更に他者に置き換え、イメージの花を咲かせるというわけです。いじめ撲滅のためには、こうした教育が大切だと思われます。
2010年11月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦
第45回
人は何のために生きているのでしょう。現代人は合理的であることを尊び、時には打算的に物事を考えがちです。生きる目的を考えること自体、こうした現代人的感覚なのかもしれません。しかし、敢えて考えてみますと、「報恩」ということに至る気がいたします。実際、人生は人の数だけ具体的に存在するのですが、概念自体は極めて抽象的です。生きているすべての人にとって人生の終わりは分かりませんし、始まりでさえ分かりません。ただし、私たちは生きるために他者の支えを受けています。これは事実です。生まれる時からしてそうでありますし、自分の親ばかりでなく、子どもであっても、私たちは出会いによって導かれ、今ここに立っています。支えて下さった方に対して、その恩に報いるために生きる。これでは目的とはならないでしょうか。
2010年10月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦
第44回
11月9日(火)に南足柄市仏教会主催でチャリティ講演会を行うことになりました。大雄山最乗寺の石附周行老師からご法話をいただきまして、落語家の柳家三三さんと琵琶奏者の田原順子さんにご出演いただきます。地域仏教会は全国にあろうかと思いますが、これは宗派に関係するものではなく、地域のお寺の集まりです。今回、仏教に興味のある方はもちろん、今まで縁のなかった方にも仏教に親しんでいただくため、多くのお寺が協力をいたしました。チャリティ賛助金として1,000円の入場料をいただきますが、それに見合う価値ある内容だと思います。どうぞご来場下さい。お待ちしております。
美笑(ほほえみ)チャリティ講演会
11月9日(火)13:00開場 13:30開演 16:10閉演
南足柄市文化会館 入場料(チャリティ賛助金)1,000円 チケットは善福寺まで
2010年9月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦
第43回
新聞などでは毎日のように事件が報道されています。国民の関心をひく事件であれば、ワイドショーでも扱われます。私たちはそういった事件の顛末を見て、同じ社会の出来事だとは認めつつも、どこかドラマを見ているような気がしてはいないでしょうか。家族で色々と意見を述べ合うことはあっても、まさか自分たちが当事者にはならないだろうと、おそらく無意識に感じていることでしょう。しかし、犯人とされる人物であっても、多くの場合はいわゆる普通の人であり、事件を見ている私たちと何か特別に違うわけではありません。人を傷つけるつもりはなくても、場合によっては普段の心構えとは逆に、そうしてしまうこともある。それが私たち人間のすがたです。児童虐待事件など、報道を見ているのも辛い事件は多々ありますが、それらを他人事としないような意識が必要だと思います。
2010年8月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦
第42回
お葬式は大事です。なぜならば、「人はこの世に生まれて死ぬ」という道理が実感できる場だからです。臨終の場も同じでしょう。ただ、病院で死を迎えることが多いなか、仕方のないことですが、立ち会えるケースは少なくなってきているようです。決して他人事ではないのですが、私たちは〈死〉を自分のこととして受け止めることがなかなかできません。できることならば、〈死〉には関わりたくないと考えているからでしょう。そんな私たちにとって、お葬式は〈死〉を学ぶ場であります。亡くなられた方が示して下さっていると言っても良いでしょう。もちろん、大事な方が亡くなって嬉しいことはありませんが、〈死〉を通してその方の命の尊さが伝わり、限りあるなかでの出会いの大切さが実感されます。時代とともにお葬式の形態も変わるでしょうが、この点だけは忘れてはならないことです。
2010年7月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦
第41回
最近、色々な場面で、「ブレない」ということが大事だと聞きます。何事でも成功するためには、確固たる目標を持ち、それに向かって努力することが秘訣なのでしょう。各界の実力者の面々は、皆そのような印象を受ける人物が多いようです。私も宗教者として、信念を持って臨むべく、日夜努力をしています・・・。と言ってみたいものですが、しょっちゅうブレています。昨日決意したことが、今日には方向転換。あれだこれだと息巻いても、これでは周りもたまらんでしょう。また、立場が変われば考えも変わるもので、自分の立ち位置中心の考え方になってしまっています。どのような状況に置かれても変わらぬスタンスで、といきたいものですが、これって難しいことですね。ブレてみて、はじめて分かる、ブレる自分。
2010年6月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦